本を食べる。

若手教員の読書ブログ 兼 教材研究とか

普通の幸せってなんだろう。~コンビニ人間とLGBT~

芥川賞受賞作 コンビニ人間

 学生時代、セブンイレブンでアルバイトをしていた身にとっては気になり続けていた作品。ようやく読めました 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 あらすじはほかの方に任すとして、僕は「幸せ」について考えたいと思います。

 

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 古倉と白羽

 この物語には「普通」ではない人物が二人登場します。主人公の「古倉」とある流れで同棲する(正確には飼う)ことになる「白羽」です。

 二人とも社会不適合者として扱われますが、「古倉」はコンビニ店員として働く間だけは、社会の一部として機能することができます。

 

 なぜコンビニなのか、というと、彼女は「的確な指示、マニュアル」のもとでは問題なく動くことができます。また、怒りや悲しみの感情が生まれないというような言葉もあり、まるでロボットのようです

 

また、幼いころのエピソードとして「喧嘩している男子を止めるためには、スコップで殴るのが一番早い」と考え、実際に殴り問題になる場面が描かれていますが、それはある意味で、とても合理的な人物であるともいえます。

 

 「白羽」は、コンビニ店員を「社会の底辺」と見下しながらも、自分自身は店員として働くこともままならず、「古倉」の家に同棲することで、身の安全と生活を守ってもらおうとします。

 社会への不満から、不満の根源を歴史の中に求め、「この世界は縄文時代から変わっていない。ムラに不要な人間は排除される」と訴え続けます。

 

 一方で、「古倉」から同棲を持ち掛けられた際には真っ先に「性対象として見ていない」というようなことをいう場面があり、(実際はもっとひどい言葉ですが)そこは動物的であると言えるでしょう。

 「コンビニ人間」である「古倉」とは対照的に描かれていることがわかります

 

 古倉 

 合理的  コンビニ(現代的) 機械的

 白羽 

 不合理  ムラ(縄文) 動物的

幸せとは何か

 作中には「結婚」という言葉が何度も出てきます。多くの人にとって「結婚」は幸せであり、また他人からの興味の対象になりえます。

 

 しかし「コンビニ人間」である「古倉」にはそれが理解できません。彼女にとって、「から揚げ棒を100本売る」という目標のほうが大切なのにも関わらず、ほかの店員は「古倉」と「白羽」の同棲についてばかり聞いてくることが、彼女にはうっとうしくてたまりません。

 

  また、一度も恋愛したことがない「白羽」にとっては、「結婚」は「白羽」を苦しめる言葉でもあります。

 

 二人の決定的な違いは結末の部分でも表れます。「白羽」は「古倉」に就職するよう働きかけ、面接を受けさせようとします。社会に辟易しながらも、「普通」の生活を求めようとするのです。

 

しかしながら、その途中に見かけたコンビニの「声」を聞いた「古倉」は自分は「コンビニ店員」という動物だと感じ、生まれ変わったように感じます。それは「普通」ではないのかもしれないけれど、「古倉」にとっては幸せなのでしょう。

 

「自分の価値観」の中で幸せを得た(であろう)「古倉」

「普通の価値観」によって苦しめられる「白羽」

「普通の価値観」の中で生活している人々(古倉の家族や、ほかのアルバイトなど)

 

 読者は3つの人々の頭上で宙ぶらりんになったように感じさせられ、この結末はハッピーエンドといえるのか、余白を残した状態で読み終わることになります。

「ハッピーエンドだ!」といえる世の中に!

 「マイノリティ」「異物」という言葉は作品の中で何度か出てきます。「古倉」は初め、自分が「異物」にならないようにと余計な言動を控え、他人の真似をして「普通」を演じます。

 

 作者は意図していないかもしれませんが、「マイノリティ」に「LGBT」を重ねるとどうでしょうか。

 

「結婚はまだか」と尋ねてくる家族

「普通」であろうとして苦しむマイノリティ

「自分の価値観」で幸せを見つける

 

だとすれば、「コンビニ店員」という動物として生きていくことに目覚める結末はハッピーエンドだ。と捉えることができるのではないでしょうか。

むしろ、ほかのコンビニ店員や「古倉」の家族、友人はそれを「多様性の一つ」として認めるべきではないのか、という主張にも受け取れます。

だとしても・・・

 ポジティブに「古倉の生き方は良い」と言えないのが・・・それほどに「古倉」は「変わり者」として描かれています。マイノリティな立場をロボットと重ねるのもどうかと思うし

 つまるところ、一度読んでみてください。